 |
人気ランキング : 10335位
定価 : ¥ 500
販売元 : 文藝春秋
発売日 : 1993-09 |
特にいいのが「3 雑貨屋の資本主義」。内容、テーマは歴史ものなのですが、表現は極めて詩的。文章のすばらしさと内容の深さがあいまって、最高の完成度になっています。丸暗記したいくらい。この1節で、文句無く星5つです。
◆感銘を受けたところ
p.172
「中国人はリラックスしているからね」(中略)確かに日本人は
常に緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつも様々の
公意識を背負っているため、と断定していい。
→中国に2年暮らしていて、上記のことは「なるほど」と思いま
した。日本人は、「会社」「仕事」「約束」などは絶対的なものと
して神聖化している人間が多いですが、中国人はそれほどあくせく
していません。常に他人からどう見られるかを気にする日本人、そ
の一方で自己の正当化(面子)を第一に考える中国人。これは、島
国の日本人と大陸の中国人の違いでしょうか。
新聞、雑誌、テレビの対談番組などで、頻繁に出会う「司馬史観」なる用語。噂には聞くが、私は司馬さん自身の著書は読んだことが無かった。複数の知人や有名人は頻りに『坂の上の雲』を絶賛するが、あの膨大な長編を読み始める決心がつかないでいた矢先、偶然本書を手にし「え、これって司馬史観のダイジェストでは?」と早速読み始め、2日で読了。
前半3分の1はまさしく噂に聞いた「司馬史観」が気楽な連載エッセイの形で祖述せられていて、「やった、コレコレ(^o^)」と思わずほくそえむ。
ところが残りのの3分の2がなんだか歴史ファン向けの「日本史よもやま話集」みたいな趣向になってきて、それ程の歴史ファンでない私にはかなり退屈でした。
またあの司馬さん独特の、良く言えば自由闊達な、悪く言えばかなりちゃらんぼらんな随筆の文体は、私の好みではありません。まあ、名人芸であるとは思いますが、、、。
俗に言う「司馬史観」が凝集された本。司馬遼太郎のエッセイとしては『司馬遼太郎が考えたこと』より面白いと思う(『考えたこと』はとりとめのない話が結構多い)。
司馬遼太郎は紛うことなき知の巨人である。しかし、司馬遼太郎を手放しで礼賛する気にはなれないことも、また私にとっての真実である。多くを述べる気はないが、私は司馬さんの「天皇に戦争責任はない」という考えにははっきり反対である。また、司馬さんは日露戦争以後の、十五年戦争中の日本の歴史を「奇胎」として、それだけ切り取っても日本の歴史は成り立つものとしている。しかしそんなことはないはずだ。陳腐な言葉だが「歴史にもしもはない」。十五年戦争の歴史も間違いなく明治維新や日清戦争・日露戦争と地続きになっており、それらの帰結であり、連綿と続く日本の歴史の一部である。十五年戦争を切り離して、今日の日本はありえない。それどころかそれ以前のどの時代にも増して、十五年戦争の歴史は日本と日本人に影響を与えているのではないか。人間は皆時代の子たらざるをえないが、司馬さんが帝国主義時代の日本を「奇胎」として扱うのも、きっと氏の戦争体験が深く影響しているのだろう。
確かに司馬遼太郎は凄い。しかし司馬良太郎を手放しで礼賛する人には、歴史小説といえば司馬作品しか読まず、しかも歴史書はほとんど読んでいない人が結構多いと感じる。「司馬史観」に脳味噌を預けてしまうのではなく、自分で歴史を見る目を養っていくことこそ大切ではないか。そのためには、既に多分に著者の<解釈>が施されている歴史小説だけで終わらず、時代時代の人びとの声、(時には無味乾燥な)歴史記録に直に触れることが肝要である、と思う。
4、5年前に読んだこの本をこの頃になって読み返している。
当時僕は20歳で、この本からいくつかの断片的な知識を摂取した。
ような気がする。むろん当時はそれで満足だった。
改めて読んでみると、陰鬱な司馬の晩年が、あまりにも鮮明だったことに驚いた。
僕たち後世が冷静な目から見れば昭和期の日本もまた日本であり、
そのロードマップもちゃんと存在するし、日本史の中で連続した空間である。
司馬は、否定する。
「奇胎」という妙な用語まで持ち出し、遠因傍証を総動員して攻撃に攻撃を重ねている。
そのことは今となっては無意味な行為に等しいが、司馬遼太郎、あるいは福田定一という
人間にとっては必要なことだったのかも知れない、と邪推する。
故人には失礼にあたるかもしれないが、司馬が「奇胎」と呼ぶ時代、
これは彼の思春期から青春期にかけての時期と、ほぼ符合するのである。
試みに年譜を引けば、確かに司馬の青春は喪失させられている。
そして本書のなかで、夥しい紙数を投入し、彼は喪失から再生への作業を行っていたのだ。
と、今24歳になった僕は解釈する。
6年後にもう一度読んでみようか。
20歳の僕の何%かを彩った作家に、敬意を表して。